旧立山街道を歩き、石仏と語ろう!
2006年7月23日  第5回 芦峅寺周辺散策

第五回 芦峅寺周辺散策
 今回は芦峅寺周辺の散策ということでまず、立山博物館の駐車場に朝9時に集合。最初に立山博物館の館内見学、展示館を見学してから雄山神社へと進みました。雄山神社の祈願殿まで行くとお祭りの準備・・・今日の午後1時から例祭があるとの事・・・ラッキー 急きょ予定変更で祭り見物が組み込まれました。まだ時間があったので教算坊の見学・庭園を眺めながらお茶(抹茶)を一服。お昼は8番観音の近くのお店で食べることに。
 午後1時に再度雄山神社へと行きました。祭りは立山大宮と立山若宮からご神体を神輿に乗せ境内を通り祈願殿まで、そこで今度は神輿から祈願殿にご神体を移し奉納するまでを見ることが出来ました。
 その後は教算坊の向かい側の宝泉坊、閻魔堂、明念坂、六地蔵、九番観音、布橋へと。
 布橋を渡ってイボトリ地蔵、また橋の下にある不動尊をみて姥堂基壇の場所へ。
 本日は一部予定を変えたのでここで終了です。
芦峅寺 雄山神社

 雄山神社は、かって立山中宮寺の中心的施設となっていました。
 江戸時代まで、この地域には、御前立の大宮・若宮の権現両宮、講堂、閻魔堂、姥堂、帝釈堂、大門、仁王門、鐘楼堂、布橋などの宗教施設がありました。しかし、明治の廃仏毀釈により多くが取り壊され、講堂は雄山神社の祈願殿となり、大宮・若宮等を残すのみとなりました。
 参道の立山杉の大木は県天然記念物に指定され、厳かな雰囲気を醸しだしています。
立山開山御廟

 立山開山・慈興上人(佐伯有頼公)ご入定の地。現在 御(お墓)の残る所は、竜象洞と呼ばれ有頼公が83歳にて自らの定めを悟り、入定された地である。
 土の底より鐘の音の聞こゆること、七日七夜に及び、鎮護国家・衆生済度を祈願しながら示寂されたと伝えられています。
 御廟(お墓)の手前に慈興上人遺詠の碑に
“なにはがた あしの葉ごとに 風おちて よし刈る舟の つくは彼のきし”と刻まれています。
立山大権現 祈願殿

 文武天皇の大宝元年(701年)越中国司佐伯宿袮有若公の嫡男有頼少年が白鷹と熊に導かれ霊峰立山を開かれた。勅命により山麓芦峅の地に、立山雄山神を奉斎する根本中宮をはじめ、壮大なる神社仏閣が建立されました。
 明治維新まで芦峅大講堂と称していましたが、改新後祈願殿と称し、諸祭儀・御神楽等を修する所となっています。
 本殿には雄山の大神を始め、立山山中三十六社の神々を合祀しています。
 拝殿の正面には白鷹と熊の絵が飾られています。
立山大宮
      佐伯宿袮有若公
 立山権現麓芦峅中宮の末社にして、姥堂と竝び立山信仰の中心社堂で本殿・大拝殿と偉容を誇っていたが、明治初年 山中よりの落石の災害に合い、両殿ともに破壊さてました。

立山若宮
      佐伯有頼公
 古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神21末社の総本宮として厚く崇敬されています。
 殊に足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬を受け、以来戦国武将 江戸時代清里武門より敬信の誠を捧げられ、大願成就・必勝不敗・災難除けの神として信仰されていました。
 また霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝することを例といていました。
雄山神社 例祭

 芦峅寺は江戸時代加賀藩の天領であったので加賀前田公の家紋(剣梅鉢をその八角の屋根に頂いた神輿二基に大宮と若宮に祀られているご神体を祈願殿まで乗せ巡ります。担ぎ手は村の若い衆、袴をはきその裾を鮮やかな腰紐に高く取り、鮮やかな襷をかけ、前後に四人づつ計八人で一基を担ぎます。
 まず、氏子総代・神官・巫女・村役が祈願殿で奉納、その後立山大宮と若宮に一基づつ神輿が分かれそれぞれ各ご神体を宮から神輿に移し途中二基の神輿が合流し祈願殿に向かいます。
 祈願殿の前で今度は神輿からご神体を祈願殿に運び奉納します。最後に石舞台の上で巫女達が立山の舞を奉納しています。
教算坊

 芦峅寺の宿坊の数は享和元年(1801年)には三十三坊・五社人と固定した数になり、各宿坊は自分の布教地区を決めその信徒を宿泊させていました。例えば等覚坊は陸奥、宝珠坊は出羽、日光坊は尾張などとほぼ決まっていました。
 宿坊建築の基本的機能は住宅ですが、同時に宗教建築であり、さらに接客施設である。つまりお寺の本堂と庫裏と宿屋を兼ねた建築です。
宝泉坊の石垣

 当坊の布教地区は江戸でした。石垣は江戸城本丸の将軍側室の善珠院・芳善院の寄進によって造られています。石碑と灯篭は三河国西尾藩主松平和泉守乗寛の寄進です。
第8番 『十一面観世音菩薩』

 大和国 豊山 長谷寺

 芦峅寺の閻魔堂への曲がり角、県道沿いの高橋敬市氏宅の角に安置されています。
閻魔堂

 芦峅寺中宮寺の諸堂の一つで、姥堂とともに布橋灌頂会(橋渡りあるいは迎講の一種)と呼ばれる大儀式の中心となるお堂です。
 このお堂は、古く文正元年(1466年)の造営の記録があり、現在まで540年の間篤い崇敬を集めています。
 現在の建物は、廃仏毀釈の際に取り壊され、昭和三年にかっての閻魔堂の部材を一部使用して再建されました。門を入ると正面に閻魔堂、右手に種子石碑と横に石仏群が並んでいます。
閻魔大王像

 閻魔堂の中に入ると正面地獄の王、閻魔大王。左右に十王像の一つ初江王、泰山王・・・閻魔王とその脇侍司命です。
 いずれも南北朝時代の作で、富山県の有形民俗文化財に指定されています。
初江王と姥尊像
《初江王》 二・七日(ふたなのか)目の日、三途の川を渡って、ここに着く、ここの王は、三途の川の監視をしており、一人一人の様子を見ており、努力したものには賞を、怠けているものには罰を与えるといわれている。
《姥尊像》 芦峅寺では、全国でもここにしかないとされる、醜悪な老婆の姿をした異形の神が崇拝されていました。姥尊(うばそん:通称おんばさま)は、大日如来の化身、立山権現の母神などとされ、芦峅寺における諸行事の中核的存在であり、とりわけ女性を救済する神として多くの女性から崇敬されました。
泰山王(十王像の1つ)
 亡くなった日から数えて七×七=四十九日の間を中陰といいます。. 薬師如来が泰山王のお姿で担当され最終の審理が行われます。
閻魔堂横の石仏群

 芦峅寺中宮寺の寺域には、江戸時代、数多くの石仏が寄進されました。
 これらの石仏は、地蔵菩薩・観音菩薩が最も多く、中には不動明王も見られます。
 現在は閻魔堂周辺や明念坂に集めて安置してあり、かっての立山信仰に寄せられた心を偲ぶことが出来ます。
種子石碑
    閻魔堂前にあります。

 この石碑は、芦峅寺中興の祖とされた阿闍梨印龍淵が仏祖報恩のために、1830(文政13)年に造立したものです。

 種子とは胎蔵界大日如来を現す種子(ア)のことです。
 この石碑を造立した龍淵は、高野山華蔵院の真言僧で、文政年間(1819〜1829)に北陸を遊行し
芦峅寺宿坊泉蔵坊に7年間滞在しています。この間、復古神道によって混乱していた芦峅寺の教義を調整し、立山信仰の興隆に尽くしています。
明念坂の石仏群と六地蔵

 閻魔堂から布橋に通ず坂路を、明念坂と云います。路の両側には、天正14年在銘の一石五輪塔、慶長年を刻する五輪図刻の板石塔婆、貞享2年7月在銘の浮彫六体地蔵尊などが樹林の下に立ち並び、佛教の世界へと導びいています。

第9番『不空羂索観世音菩薩』

   大和国 興福寺 南圓堂

 閻魔堂から明念坂を降りきって、道路を渡ったところに安置されています。
 かっては閻魔堂境内の正面入口の石段下に水口不動尊とともに祀られていました。
 元来ここには道の向かい側に崖を背にして、第十番札所、山城国は三室戸寺の二臂千手観世音菩薩の分霊像が安置されていましたが、いつの頃からか九番の石仏がここに来て今に至っています。
布橋(天の浮き橋)
 昭和45年秋に復元された日本三霊橋の一つで、閻魔堂と姥堂の間に流れる姥堂川にかかる橋です。姥川を境に東側を彼岸、西側を此岸とし、両岸を結ぶ架け橋として「天の浮橋」とも、また灌頂会に白い布が敷き流されたところから布橋とも云われています。
 芦峅寺中宮寺の最も重要な行事である布橋灌頂会の際に、閻魔堂から姥堂まで白布を敷きつめ、目隠しした女性達が僧侶に導かれ、この橋を渡りました。
 この橋の規模は長さ25間(25菩薩)、高さ13間(13光仏)、擬宝珠6個(6道世界)、橋板108枚(煩悩の数)など仏教にちなんだ数字が用いられています。
イボトリ地蔵(芦峅寺)

 六地蔵石仏(六地蔵磨崖佛)、凝灰岩の厳石に浮き彫りしたもので布橋の近くにあります。
 「天正年間(1580年代)イボで苦しんでいた一人の旅人が立山へ登ればなおるということで、この地蔵に参詣しその前に溜っている水をイボにつけて帰宅したところ、いつの間にかなくなっていた」といわれています。
 室町時代末期から桃山時代の作と思われ、高さ1.3m、長さ3m、幅2m石で、像高75cmの地蔵6体が彫られています。
 また近くに佐伯文蔵さんのお墓もあります。
姥堂基檀
 姥堂は江戸時代、芦峅寺中宮寺の最も重要な行事である布橋灌頂会の際の中心的な施設であった。布橋灌頂会とは、女性の極楽往生の願望をかなえてくれる宗教儀式です。
 姥堂内には、中心となる姥尊像3体を始め、全国66ヶ国に因んだ66体の姥尊の合計69体の姥尊が安置されていました。
 布橋を渡り、姥堂に導かれた女性達は、いっとき篭もりを体験し、さらに立山の姿を仰ぐことで極楽浄土に生まれ変わるというものでした。
 姥堂は、明治の始め頃の廃仏毀釈により取り壊されました。 
《手水鉢》
 「奉納 ウバ(女偏に田を3つ重ねた漢字が使われています)堂御寶(宝)前」と中央に刻まれております。右脇に「天保十五年・・・」、左脇に「大仙坊現住由道」とあります。
第31番『千手十一面観世音菩薩』
 近江国 姨綺耶山 長命寺

 室堂平(ターミナル)地点に安置されていたと思われますが、現在は立山博物館の展示場に安置されています。
 河邑善左衛門惣連中と彫られています。